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2009年1月20日 【 思いやり 】 昨年末から「派遣切り」に代表される雇用不安が続いている。 その中で、住居の提供や雇用を急遽拡大して現状の打破に貢献しようとする自治体や企業もある。 そして、数多くの人達がボランティアとして活動している。 「困った時はお互い様」の心理のあらわれだろう。 かなり前に元NHKのアナウンサーだった鈴木健二さんが書かれた本に「気配りのすすめ」があり、発刊当時はベストセラーにもなった。 私は、今「気配り」をもっと深くした「思いやり」を意識するべきだと思う。 単に「大変だろうな」、「可哀そうだな」と思うだけではなく、親、兄弟姉妹、親戚、親友、恋人に対するような思いやり(同情)が必要だ。 実際に行動ができなくても、「他人ごと」で終わらせるのではなく、その人、その人たちのことを思うことが大切だ。 自分自身が直面している問題や心配事もあるだろうが、他の人を思いやる中で『自己憐憫』や『ミーイズム』が解消されていくことだろう。 「情けは人の為ならず」ということわざがある。他の人に情けをかけておけば、めぐり巡って自分にも報いがあるという意味だが、他の人を思いやった時点で既に恩恵を受けている。 政治が混沌としている中で、同じ時に同じ国で生活している他の人のことを思い、「変だ!」、「おかしい!」と声をあげるべきではないか。 4ヶ月経っても、目立った行動ができない今の政治は変だ。 雨が降り始めて、「洗濯物を取り込むのが先だ!」。「そうじゃない!布団を取り込むのが先だ!」と、家の中で長々と言い争っているように見える。 本当に困っている人たちに対する「思いやり」が感じられない。 雨がまだ降り続いている。
2008年12月31日 【 希望 】 あなたは、節目の時を迎えて、反省と新たな決意を胸に秘めていらっしゃると思います。社会情勢や会社、家族、友人の影響を受けたり、時には振り回されてしまったこともある1年だったと思います。10大ニュースを見ると、好ましくない出来事が大半を占めていました。 このような世相の中ですが、夢と望みを持って新しい年を迎えて下さい。 1年の目標ややりたい事が決まったら、紙に書いてみてください。誰に見せる必要もありません。他の誰かに宣言する必要もありません。ただ紙に書いて下さい。できれば、いつも目に出来るところに貼ったり、はさんだりして下さい。三日坊主や目標倒れから卒業できますよ! あなたが良い1年を送ることができますようにお祈りします。 2008年12月17日 【 急場 】 内定取り消しが問題になっている。法律で規制しようとする動きもあるようだが、そこまで政府が関与していいものか冷静に取り組むべきだと思う。ものごとには回避する方法がいくらでもあり、就職内定についても例外ではないからだ。かえって学生の立場を危うくする可能性もある。 報道によって、実名が明らかになっている企業による内定取り消しの推移を見ていて、スゴイなと思ったことがある。内定を取り消された学生たちによる団体交渉だ。社会に出る前におおかたの社会人でもしたことのない、団体交渉をしたのだというからスゴイ。 就職浪人をするための学費などに相当する金額の保障を要求したそうだが、なかなか出来そうでできないことだと思う。 内定を取り消されて憔悴してしまったり、別の就職先を求めて活動を始めたりと、様々な反応・行動があると思うが、仮にあなたが内定を取り消された本人だとしたらどうするだろう。危機に際して自分が反応するだろうと思うことと、自分が望ましいと思う反応を考えてみることは良いことだと思う。 自分自身のことは分かっているようだけれでも分かっていない。急場で本性が現れる。でも急場を想定して、行動を決めることはできる。内定取り消しだけではなく、地震などの災害時や仕事でのトラブルなども想定できる。個人としての危機管理だ。能力の一つとして養うべきじゃないかな。 2008年12月6日 【 探究心 】
『若い人たちにもっと好奇心を持って欲しい!』というような言葉や文字を目にすることが多い。内にこもらずに、外に目を向けて欲しいという意味なのだろうが、何か引っかかるものを覚えた。
三省堂の辞書には、「珍しい物事・未知の事柄に対して抱く興味や関心」とある。多くの人は、好奇心を持っている。ただ、その対象が違うと虚しいものになってしまう。 例えば、好奇の対象が「人気女優〇〇と姑との確執」であるのと、「ES細胞の新たな発見」であるのとでは、意味が違うのではないだろうか。ゴシップに関心を持つなとまでは言わないが、時間があまりにももったいなく感じる。人気女優〇〇の演技力のルーツを探るのであればいいのだが・・・
探究心という言葉もある。辞書には「心」;までが含まれてはいないが、探究は、『物事の意義・本質などをさぐって見きわめようとすること』と意味づけられている。 人は、ひとつのことを、起きている時も寝ている時も考え続けることによって練られていくといわれている。成長、進歩のステップだ。
世の中は、好奇心をいたずらにあおるものでいっぱいだ。テレビ、雑誌、インターネットの中には悪意あるものもあると思うべきだ。 情報に踊らされず、探究心をもって成長し続けたいものだと思う。『最近これに凝っていてね・・・』、『今これに熱中しているんだ』と言えるものがありますか?
※ おすすめの本; 「人生は勉強より「世渡り力」だ! 腕〈スキル〉を生かす人づきあいの極意 岡野雅行著 青春出版社 788円 べらんめー調が心地よい本です。手に取ってみてくださいね。
2008年11月25日 【 失敗 】
先日、事務所に携帯電話を忘れて出てしまった。バッテリーの機能が落ちたようで、頻繁に充電をしなければならなく、その時も携帯電話を充電器につないだままにしてしまった。なぜかそのような時に限って(単なる気のせい)戻る時間が遅く、多くの人に迷惑をかけてしまった。恐らくあなたも同じような失敗をしているのではありませんか?
失敗の原因は、不注意、計画性の欠如、能力の不足など自分が原因であるものと、他(自然や他人)の効力によるものに分かれると思う。(ほかにもあるだろうけれど)失敗は、多くの場合にそれを防ぐことができる。というよりも、それを教訓にすることができる。
不注意による失敗はもちろんのこと、計画性の欠如による失敗や能力の不足による失敗も教訓として生かせれば、同じ失敗を繰り返さずに済む。そこに成長がある。しかし、失敗の代償が小さいと失敗を失敗として受け取らない。石につまづいても失敗とは思わない。自動販売機の下に1円玉を落としても失敗とは思わない。仮に1万円札だったらどうだろう・・・
若い人たちが挑戦しなくなったという。失敗をあまりにも恐れるからだという。失敗による痛みが、肉体や物的なものではなく、心に受けるからだという。 失敗を失敗として受け止めれば、自分への教訓。失敗として受け取らなければ、ケセラセラ・・・で済むのじゃないかな。 「あつものに懲りてなますを吹く」ということわざがあるが、失敗を恐れて何も挑戦しないのはもったいない。
年をとればとるほど、挑戦する機会が減ってしまう。 もっと図太く生きよう! ケセラセラ・・・
2008年11月6日 【 自己啓発 】
本屋に行けば必ずと言っていいほど「自己啓発」のコーナーがある。自己啓発とは、『自分が気づかずにいるところを教え示して、より高い認識・理解に導くこと』という意味だが、実際のところは、啓蒙的な意味合いよりは、「やる気」の意味合いが強いようだ。たぶんこのブログを読んでいるあなたも「自己啓発」が好きであったり、興味を持っていることと思う。 私もひと頃は、「自己啓発」のコーナーに立ち寄っては本を物色し、我が家の書棚を「自己啓発」本でいっぱいにしていた。
しかし、ある時にこう気づいた。『自己啓発の知識やノウハウをいくら貯め込んでも、何も変わらないのはなぜだろうと』当然と言えば当然だが、いくら認識や理解が高くなっても、知識として持っているだけ(多くは、時間の経過と共に忘れてしまっているが・・・)では何も変わりようがない。立ち止まっているからだ。行動していないからだ。 啓蒙的な「自己啓発」が目的となってしまい、行動的な「自己啓発」が的から外れてしまったからだ。「的外れ」とは、こういうことを言うのだろう。
変わりたいと思っても変われないのは、変わるための行動をしていないからにすぎない。人が行動するための動機は、大きく分けてMUSTとWANTがある。やらなければならないことは、たいがい「やりたくないこと」であり、先送りされる、もしくは、なされない傾向にある。やりたいことであっても、MUSTを感じると急に「やりたくないこと」になってしまう。例えば、野球が好きで野球部に入部する。大会を前にして練習が厳しくなると、上手くならなければ、強くならなければとMUSTを意識する。厳しい練習を「やりたくないこと」と思い始める。
「自己啓発」とは、「やりたくないこと」を乗り越える一歩から始まるのではないか。そのためには、MUSTをWANTに変える「やる気」が必要になる。やってみれば「やる気」でることも多い。 やれない原因がトラウマであるかもしれない。あるいは、ただの「食わず嫌い」かもしれないが、小さな一歩を踏み出そう!明日立っている場所は、今日ときっと違うはずだ。
2008年10月21日 【 誘惑 】
金融界を揺るがす事件が続く中で、このことに触れて書いてみようかと思ったが、どうしても悲観的な内容になってしまうので、書くことをやめてきた。いま言えることは、「不安であれば経済を良く学ぶこと」が必要だということだ。特に与信(金融機関などが融資相手を信用して金銭を与えること)の基となるものについて、学ぶべきだろう。
話は変わって。生活をしていく中で、さまざまな誘惑に出会う。老若男女を問わずに心をかられる誘惑は「お金」だろう。元々、経済的な交換手段にすぎなかった「お金」は、本来の力以上のものを持ってしまっている。
社会的地位、信用の尺度などにも。 「お金」が万能ではないことは、誰しもわかっていることだが、その誘惑に負けてしまう。「お金」のために人を殺したり、盗んだり、だましたり、賄賂を贈ったり、賄賂と知りつつ受け取ったり、賞味期限を偽ったり、毒を混ぜたり、使ったと見せかけて裏金にしたり。
「お金」に関する誘惑は、多様であり、出会うことも多い。 おまけに、「お金」の誘惑に負ける正当性も簡単に作り出せてしまう。子供のため、家族のため、生活のため、ものごとをスムーズに進めるため、会社の利益を上げるため、社員の生活を守るため、誰にも迷惑をかけないから、みんなもやっているから、今までやってきたことだから・・・
誘惑にあった時に、一線を越えてしまうと常態化してしまい、罪を重ねることになってしまう。倫理、道徳、モラル。いろいろな言い方があるが、人それぞれが誘惑にあう前に負けないように持つべき武器が必要だ。 人は弱い。誘惑にいとも簡単に負けてしまう。再発防止策もいいが、一人ひとりに武器を持たせることのほうが重要だと思う。
2008年9月5日 【 引き際 】
福田総理の突然の退陣から数日が経ち、総裁選に向けて論戦が交わされようとしている。 福田総理の退陣に対して、敵前逃亡だとか無責任だとか言われているが、時代の流れに翻弄された結果だと私は感じている。
以前にも、今現在は改革の時期にあると書いた。改革を求める一部の人と改革を良しとしない守旧派との闘いが続いている。 小泉元総理は、率先型の政治家だったので守旧派が折れることが多かったが、安倍元総理と福田総理は調整型の政治家なので、守旧派に力負けしたのではないかと思う。この時期に調整型の総理では、国民のいら立ちを抑えることは不可能だと思う。支持率は、低空飛行。当然、守旧派にいいようにされ、改革は進まないだろう。
福田総理には気の毒だが、退陣が遅すぎたかもしれない。任期を終えずに退陣するのは、無責任と言われてもしようがないが、我々国民にとっては良かったのではないか。支持率を軽視する政治家もいるが、国民感情は割合に的を射ている。また、役に立たないものを、いつまでも大事にできるほど余裕もなく無くなってきている。
改革の時には、守旧派が改革派を圧倒的に上回っている。明治維新の佐幕派は、倒幕派を人数では圧倒していた。そして、改革後に彼らは、権利を失った。第2次世界大戦後の改革は、農地解放や財閥解体などによって守旧派の権利を奪った。今、守旧派といわれる人たちも何らかの権利で生きている。いつのまにか出来た権利で。
改革に必要なのは、「おかしいな。へんだな。」と感じることから始まる。そして、行動の主役は若者だ。
2008年8月25日 【 厳しさ 】
長いな~と思っていたオリンピックも、終わってしまえばあっという間に感じる。勝手なものである。 世界中から集まったアスリート同士の激突に、勝負の冷徹さを感じることが多かった。勝者にも敗者にも拍手を送りたい。
ブラジルのサッカーチームを率いるドゥンガ監督を久しぶりに見て、彼がジュビロ磐田で活躍していた頃を思い出した。とても勝負にこだわる熱い選手だった。チームメイトのミスに対して、試合中でも厳しく叱責していた。そのかいもあってだろう、当時のジュビロは強かった。小さな妥協がチームをダメにし、ミスをした選手をダメにすることを恐れたのだろう。厳しさの中に優しさを見る。
成長を促す厳しさに似て非なるものが、失敗を追及する厳しさだ。星野ジャパンを襲っているのが、この失敗を追及する厳しさだ。戦犯探しといってもいいようなものだ。そこには愛情がない。失敗を二度と犯さないための厳しさではなく、単なる追及だ。失意の中にある人には慰めこそ必要であれ、追及は酷すぎる。
ダルビッシュ投手や田中投手などの若手は、世界に対する手応えと修正すべき点を多く学びとったに違いない。無意味な追及は、その灯火を消してしまうかもしれない。フランチャイズに戻った時に、温かく迎えてあげよう! 厳しさについて考えてみませんか?
2008年8月18日 【 努力 】
北京オリンピックの前半は、メダル獲得を期待された選手たちの明暗を幾度となく見せられている。勝負の厳しさを感じる。 コーチや指導者が、勝者を評する中に「努力の天才」という言葉を何度か聞いた。勝ち続けていたり、記録を塗り替えるような勝利を得る人を簡単に「天才」と呼んでしまうが、周りの人たちはそこに至るまでの努力を知っている。才能だけで勝利を得ることは出来ないということなのだろう。
以前は、「血のにじむような努力」とか「血の小便が出るくらいの努力」と聞くとなにか押しつけがましい感じがしたが、最近そう感じなくなっている。たぶん『努力しなさい』と言われなくなったからだと思う。 『努力しなさい』と言われると、『うるさいな、わかってるよ、どうすればいいんだよ』という反応になってしまう。
『努力しなさい』には具体性がない。とても抽象的だ。 自分の弱さやズルさは、自分が一番よくわかっている。でも、それを克服することが出来ないから『努力しなさい』といわれる。イライラがつのるばかり。
もともと「努力」は周りから言うものではないようだ。本人の弱さを克服するための行動の現れでしかない。自発的なものだ。 また、「努力」は一瞬ではなく、継続した期間を必要とする。付け焼刃ではないということだ。 こう見てみると、「努力」は誰にでもできる可能性があるが、誰にでもできるものではなさそうだ。なにかコツがあるのだろう。 意志? 習慣? 環境? 希望? ・・・ あなたは、なんだと思いますか?
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